かぐらいっきょうの『ここが変だよ日本の教育』

日本の社会や教育で疑問に感じていることをちょこっと書いたブログ

「背の順は差別だと言っている教員がいる問題」の巻

「差別」という言葉の自分勝手遣い

 

社会における差別について、教育の場で話す時に、私は常に前提にしていることがあります。

それは、

・差別と区別の違いを明確にすること

・差別がないというのは、利害を伴う社会的機会の上で区別を口にしない(持ち込まない)こと

です。

 

特に一番目の、差別と区別をあまり考えずに、すぐに「差別だ」「差別だ」という言葉を遣う人がいますが、その発言は問題提起のために使用されているのではなく、大方、自己主張のために使われているのが悩ましい所です。

 

さらにその発言が、結局、差別を作り出す、もしくは助長している可能性があることに全く気付いていないことも、残念なことです。

 

「背の順の整列は差別だ」なんて素人的な発想は、まさにその一端と言えます。

 

このことを言っているのが一般の人であればまあまあとたしなめる程度で終わりですが、どうも一教員がいっているそうなので、テーマとして取り上げてみます。

 

 

 

「背の順は差別だ」という教員がいる問題

 

「背の順は差別だ」なんていうワードは、面白いと言えば面白い。

 

まあ、それで私も今回、ネタにさせてもらっているのですが、ただ、そのワードに反応したのではなく、その奥底に、今の学校の問題が潜んでいるので、取り上げてみました。

 

要は、このような幼稚臭い発想をしている教員が学校に存在すること、そのことが問題だということです。

 

もちろん、今の日本社会は、そういう話題が好きですし、そういう流れの中で教育が変な方向に行っているのも事実ですが、教育の分野においては、逆にそういう流れに警鐘をならしていかなくてはと思うわけです。

 

 

さて、この発想に至る問題点は、二点あります。

 

一つは、背の順で並ばせるのは、様々な教育上の理由があるということを、「この教員は知っているのか」ということです。教育の専門家である教員が、単純に前が見やすいから、なんてことで考えているのでは困ります。

 

もう一つは、個々の違いをお互いに認め合う社会を作るのが教育の役割です。その役人である教員が「差別思想をあえて作り出している」というのも困ったものです。

 

 

まず、「なぜ背の順に並ばせるのか」ということを、この教員は深く考えたことはないのでしょうか。もしくは誰かから教えてもらっていないのでしょうか。

 

背の順と言うのは、当たり前ですが、低い順と高い順があります。

今までの経験上、運動会(体育祭)で高い順というのはありますが、他で高い順は見たことがありません。

 

まあ、基本的に学校で並ぶ場合は低い順ですね。

これには、教育上&安全管理上の理由があります。

 

整列と言うのは、教育分野で言うと、集団行動になります。

子どもたちには安全についても指導も行います。自分たちの命にも関係しているということです。

 

教員たるもの、このことを理解していて当然ですが、この発想にはその意が全く見えません。

 

先ほども述べましたが、ただ単に前が見やすいからなんて、素人みたいな考え方では困るのです。

 

「教育における整列の重要性」というテーマで講義をしてくれといわれたら、私は最低でも2時間は語れます。

それぐらい重要なことなのです。

 

 

何でもかんでも差別と言いたがる人

 

すぐに差別だと言いたがる人がいますが、教育の世界では、かなり慎重に使わなくてはなりません。いや、できれば使わない方がいいとされています。

 

今回も、簡単に使用されていますが、教育に携わるものであれば、言葉の持つプレッシャーをもっと考えて発信してほしいものです。

 

 

そもそも、身長の低い高いが、なぜ差別なのでしょうか。

 

私は幼少期から身長が低く、整列すれば、いつも一番前か二番目だったのだが、身長に関して、今までに何か不当な扱いを受けたり、不利益を被った経験はありません。

 

あえて言うなら、昔、フランスに行ったときに、公衆便所で男性用便器の位置が高すぎて、用を足すのに苦労したぐらい・・・ですかね。子供用を使いましたが。

 

身長を含め、身体的特徴における悪口などはあったかもしれませんが、これは差別ではなく、いじめの部類です。

 

ニュース的な話題で、身長に関しての問題で思いつくのは、キャビンアテンダントやお相撲さんの身長制限の話でしょうか。

 

ただ、これを差別だと言い出すと、男女、年齢、能力、はたまた外見など、全てが差別なんて言い出してきりがありません。

 

仕事については、適材適所による求人という観点に立ってということが前提ではありますが、その特性上、募集要項にも制限があって然りだと、私は思っています。

 

 

差別とは、最初にも記述した通り、区別により、利害に差が生じた場合の概念であり、個人的なメンタルにダメージを受けた受けないは別の話です。

 

もし、身体的な特徴で嫌な思いをするのであれば、それは差別ではなく、いじめの方の問題であり、そういったことをいじらないことを道徳で教えるのが学校教育でしょう。

 

私にとって、背の順に並ぶことが良い悪いの問題よりも、「なぜそうしているのか。」を深く考えない教員がいること、そして、その教員を、教育を知らない人たちが、持ち上げること自体を問題視しています。

 

 

「背の順に整列する」理由をちゃんと子供たちに教えられる教員が必要

 

教育現場の行っていることには、理(ことわり)があることが多いが、それを知らない&考えない教員の多いこと、多いこと。そして、理なきこともたくさんあるのに、それを変えようとしない教員の多いこと、多いこと。

 

今回も話題も、結局、そこに尽きるのです。

もちろん、背の順は、理がある方ですよ。

 

なにかの問題を問う場合は、その前の理由から考えるは当たり前です。

 

世の先生方は、平べったい教科書の勉強をするのではなく、もっとその奥にある概念の勉強をしてほしいと思います。

 

物ごとには全て理があり、それを教えるのが、学校教育です。

それを考えれない教員は、もともと「教員の資質」がないのです。

 

この資質なしの教員が多いのが、この国の教育の問題なのです。

 

嫌な思いをしている子がいるからシステムを変えるなんて言いだしたら、みんな言いたい放題で、学校はぐじゃぐじゃです。

 

「背の順に並ぶ」ことの「重要性」がわかる教員が、この日本にたくさんいることを切に願う、今日この頃である。