「虐待としつけの違いがわかりますか」の巻(後編)
さてさて、後編はきちんとテーマに沿っていきたいと思います。
後がないと言うことで結論から行きますと、「しつけ」と「虐待」の違いは、子育てを前提にいえば、ズバリそこに「理性」と「愛情」があるか否かです。
僕も、小学生の頃に、父に頬を叩かれた経験があります。
もちろんそれなりの悪事を働いてますので、叩かれたことにも納得して反省もしましたが、それ以上に叩いた父が涙を流していたのがショックで、猛省したのを今でも覚えています。
父は日頃から怒ると怖かったのですが、僕たち息子に手を上げることはなく、この時は、「そうしなければ、この子のためにならない」と考えたのでしょう。涙ながらにということは、怒りに任せてということでもなく、考えをもって叩いたと想像できます。
程度は、頬が少しジンジンするぐらいで、目を覚ます時にパンパーンとやる、あんな感じです。おかげ様で、目が覚め、そこそこまっとうに生きています。
報道で流れているほどの虐待のレベルになると、あれはもう「しつけ」という範疇ではなく、異常です。その事件をもってしつけの話にもって行くこと自体、ナンセンスと言わざるをえませんが、絶対数として「見える虐待」が、大なり小なり増えてきているので、その類は全部ダメにしようという流れにしたいのでしょう。
でも、それもダメです。
しつけの程度が議論となり、体罰自体、絶対ダメだという人も、かなり増えてきていると思いますが、僕の意見としては、痛みが後に残るような仕打ちや、体調を害するような仕打ちは、完全にアウトだと思います。
しかし、愛情と理性があれば、そんな酷いことはできないのではないでしょうか。
旧約聖書のソロモン王の話や、大岡越前のドラマでも出てくる、ひとりの息子を二人の母親が取り合う話を、ふと思い出しましたが、泣いている我が子を見て、心が痛まないのは、親であって親でなしです。
しつけとは、基本的な生活習慣の仕方を教えるとか、人に迷惑をかけない、社会での立ち振る舞いを教えるとか、そういったことが目的であるはずです。その方法の中に体罰的なものが入ってきますが、決してダメージを与えるのが目的ではありません。
おやじが怒ってちゃぶ台をひっくり返すみたいな漫画もありましたが、感情に任せて行為に及ぶことが問題の原因です。感情としつけは、切り離して行う努力を大人はしていくべきです。
虐待自体は、今日に始まったわけではありませんが、この機会に、過保護も含めて、家庭教育のあり方について、考え直してみるのもいいのかもしれませんね。