かぐらいっきょうの『ここが変だよ日本の教育』

日本の社会や教育で疑問に感じていることをちょこっと書いたブログ

「体罰 と 暴力 のちがいを 言えますか」の巻

  学校では「体罰はダメ」と公にはなってますが、あなたは、どう思いますか。

 否定派?それとも肯定派?

 

 あるアンケートでは6対4みたいな数字も出ていますが、理想と現実みたいなこともありますので、答える方も難しいところでしょう。

 

 上の世代になればなるほどより肯定的で、若い世代になればなるほどかなり否定的であるのは、時代の流れというものです。

 

 最近の若い先生は、先生に叩かれた経験も、生徒を叩いた経験もないかもしれません。

 

  しかし、ここで考えてほしいのは、「あなたが今、想像しているそれは、ホントに体罰なのか。」ということです。

 

 

 例えば、一般社会では「体罰」は法的にOKですよね。

 ここで、「?」の人もいますかね。国家権力によるものです。

 

 罪を犯した者は、必ず罰せられます。

 執行に抵抗すれば、しばかれますし、最悪、射殺されることもあるかもしれません。罰には肉体的、精神的苦痛をともなうものもあるでしょう。これが体罰です。

 

 しかし、社会ではOKで、学校ではダメ。なぜでしょう。 

 ここで「?」の人に、結論から言いましょう。

 

 学校でよく問題になる「体罰」は、実は「体罰」ではなく、ただの「暴力」だからです。

 

 体罰とは文字通り「罰」ですから、そこには「罪」がないといけません。

「罪」とはルールを破る事ですから、「罪」の前にルールがあるはずです。

 さらに、「罪」と「罰」には、軽重のバランスも必要です。

 

 学校では、先生の感情的または突発的な判断で、「叩く(殴る)」「蹴る」といった行為がなされます。さらに、生徒によって、えこひいきもありまくり。

 昭和時代には、よく見られた光景でしょう。

 しかし、これは、体罰ではありません。ただの暴力です。 

 

 

  では、体罰とは、どういうものなのでしょうか。  

 

 まずは、「正座」なんかで考えてみましょうか。

 

 廊下を走った生徒は、5分間正座と決めます。

 生徒は、廊下を走らなければ、正座をさせられることもありません。道路交通法と同じです。真面目にルールを守っていれば、なんの問題もないとなりますし、みんながこのルールを意識するようになるので、廊下での衝突事故はほぼ無くなるとなります。

 

 では、「叩く」で考えてみましょう。

 

 生徒に手をあげるのであれば、「〇〇をしたら、叩くぞ」と警告をして、それでもすれば、叩くということです。これが、無理難題であればまた話は別ですが、他人に迷惑をかけている行為、集団行動を乱す行為、学校の権威へ反抗に対しては、最終的に必要な場合もあると考えます。

 

 

 罪と罰との関係は、人間社会において、全員が勉強しなくてはいけないことです。

 

「ルールは破るためにある」などという人もいます。最終的に破るのは勝手ですが、そこにはそれ相応の罰があるということを覚悟の上で、となるわけです。

 

 大半の子どもは、ルールが決められていたら、それを逸脱することはしません。

 しかし、赤信号、みんなで渡れば、ということも起こります。

 

 先日も近所の小学校で、クラスの半分の児童が学校にお菓子を持ってきてこっそり食べるという事件がありましたが、真面目な子も結構参加していました。規範意識と言うのは、集団心理に左右されやすいので、気をつけなくてはいけません。

 

 さらに、反抗期に入ると親や先生の言うことを素直には聞かなくなります。

 そのため、よりきちんとルールと罰を決める必要性が生まれます。

 そして、「体罰」は、罪悪感の持てないルール違反者に対する、最終手段であると考えるのが妥当だと思います。お咎めがないルールなどルールとして存在しないからです。

  

 

 僕は、生徒指導を考える場で、先生方に次のような質問をよくします。 

 

「あなたのクラスに、両脚を机の上に上げて授業を受けている子がいます。この子の足をどうやって下ろさせますか。」

 

 これは、実際に、ある小学校の5年生のクラスであった話です。

 そのクラスの先生は、その生徒の足を下ろすことはできず、ほったらかしでした。そうして、学級は崩壊しました。

 

 みなさんが先生なら、この子の足をどう下ろさせますか。