「マナーと名のついたルールはなくした方がみんなが気持ちよく暮らせる」の巻
あるテレビ番組で、ドアのノックの回数について、トイレの場合とか社長室に入る場合とかいうのをやっていました。
こういうビジネスマナーについて、あなたはどう思われますか。
僕は、マヌケな悪習だと考えています。
ノックとは、ドアの向こう側にいる人の在室確認、または入室許可を得る合図ですから、回数なんて何回でもいいわけですが、この回数にこだわっている理由がわかりません。
誰が決めたのか知りませんが、世の中には、まるでそれが不変的なルールかのように、〇〇マナーという概念が横行しています。
「〇〇マナーはこうだ。」などと、まるで知っていて当然の体で、マナー講義をする人の多い事、多い事。
「マナー」と聞くと、いかにもみんなが気持ちよく過ごせるためのルールみたいなイメージをもっている人が多いかもしれませんが、そうではありません。
教育的観点から考えると、世の中で話題になる〇〇マナーは、特定の人たちのルールを周りに押し付けているだけの悪習で、逆に人を必要以上に不快にさせるものとして、社会に存在しているといえます。
だから、義務教育では「〇〇マナー」は教えないのです。
僕は自由人なので、日ごろ、〇〇マナーについて考えないといけないような場面にはそうそう会わないのですが、近所のテニスコートで友人とテニスをした時に、たまたま「マナー」という言葉に遭遇しました。
それは、テニスをした後に、コート整備をし終えて帰ろうとした時のことです。
次の利用者だと思われるおばちゃんが寄ってきて、「使用後にはラインをはいておくのがマナーですよ。」というのです。
そこのコートは、クレーコート(土のコート)だったのですが、ブラシがけをするとラインは消えてしまいます。その消えてしまったラインを、次の利用者のために、見えるようにはいておくのがマナーだといっているようです。だれが、決めたんだ、そのマナーは。
「すみませんが、ご自分でしてください。」といって帰りましたが、その方は、自分がマナーだと思っていることが実行されなかったことを、不快に感じられていたようでした。
これが、まさに〇〇マナーの弊害なのです。
〇〇マナーとは不思議なもので、自分がマナーだと思っていることを、相手がしないと不快になります。しかし、それをマナーだと思っていない人は同じ行為を目にしても、それを不快だとは思わないのです。
この時も、僕たちが使う時は、前の利用者もラインをはいてなかったので、もちろん自分たちでやりましたが、いつも練習前に自分たちでラインははいているので、当たり前のこととして、快も不快もなかったのです。
世の中のテニス愛好家には、もしかしたら、先のおばちゃまの言い分を「マナーだ」と思っている人もいるかもしれないので、その非(効率性)について言及したいと思います。
土のコートでは、雨が降ったり、風が吹いたり、はたまたブラシがけをしたりすると、ラインは土がかぶってしまいます。そのため、使用前にラインが見えるようにほうきではくのですが、はくのに5分~10分はかかります。
もし、使用後にラインをはくというルールをみんなが守るとすると、朝一で使った人は、使用前と使用後に、2回ラインをはかないといけないので、この利用者だけ、20分ぐらいは、コート整備に時間をさかないといけないことになり、不平等が発生します。
さらに、その日、最後に使用した人は、次の人が使う時には消えてしまっている可能性が高い無駄なことを、またまた10分もかけてやらないといけないのです。
自分で最初にやれば、みんな平等になりますし、無駄もなくなります。
少々ラインが見えなくてもいいと思いう利用者もいるでしょう。そういう人は、ラインはき自体、やらなくてもいいのです。とても効率的ですよね。
そのあたりが、変なマナーにこだわる人は、わかっていないのです。
と、強気に言ってみたものの、テニスコート毎にコート整備のルールもあるだろうから、一応、施設管理者に問い合わせたのですが、そのようなルールはないそうで、あくまでも個人の見解だそうです。
少しマイナーな話でしたが、マナーとは、このように知っている人を不快にするルールなのです。
「マナー」と「礼儀」は、こういった意味で少し違います。
学校で教えるのは礼儀の方です。道徳では、自分と相手に置き換えて、してほしくないことはしない、してほしいことをやるということを基本的に教えますが、礼儀とは、その延長線上にある行動学の事です。
マナーも、社交のルールとして、最低限のことを決めておくことには意味はあるかと思いますが、なぜそうする必要があるかは考える必要があります。
細かいルールを作ってそれに従わせるのではなく、相手への心遣いがあれば、そこに自然とマナーも生まれてくるはずです。
「マナーを守れ!」ではなく、「マナーを考えて。」がいい社会への方向性だと考える平成の終わりです。