かぐらいっきょうの『ここが変だよ日本の教育』

日本の社会や教育で疑問に感じていることをちょこっと書いたブログ

「早く布マスクを配ってくれ。それで日本は救われる。」の巻

布マスクの配布が始まるらしいが・・・

僕は、風邪もインフルエンザにもかからない体質なので、普段、マスクをすることはないのですが、最近は、マスクをしてないとマナー違反みたいな雰囲気もあるので、スーパーなど、買い物に行くときだけ、マスクをするようにしています。

 

家にあるマスクは、今回のコロナ騒動で購入したわけではなく、何年か前に、もしかしたら必要な時があるかもと思って買っていた物が封も切らずにあったので、それを小出しにして使っています。

 

ただ、今までに必要性が全くなかったため、ストック数も乏しく、そろそろ底をつきそうなので、キッチンペーパーの手作りマスクにしようかなと思っています。

 

国から、布マスクが届けば、それを洗って使えるのでありがたいのですが、どうも都市部から順次らしいのでがっかりです。

 

しかし、これで、みなさんも、朝から薬局に並んだり、ネットで高いマスクを買ったりしなくてもよくなりますね。

 

「いやいや、使い捨てマスクでないと」という人にもいい政策なのです。

 

まず、僕みたいに「布マスクでいい」という人が、使い捨てマスクを購入することがなくなりますので、通常よりは早く市場に使い捨てマスクも出回るようになるでしょう。

 

さらに、お家に届いた布マスクが必要ないのなら、ネットで売っちゃえば(政府発表の価格でね)、2枚じゃ足りないと文句を言っている家庭にも行きわたるし、「こんなものに税金を!」なんてと言っている能のない人には、税金が何割かですが現金で配られたのと同じになります。

 

そして、どうしても使い捨てマスクが必要な医療関係者の方にも回せるし、いい政策だと思いますね。

 

 

なぜ、マスクがいつまでたっても品切れなのか

使い捨てのマスクは、一回使ったら捨てないといけないと思っている人が多いので、全国民が一日一枚使用すると、単純計算で一日に1億枚いります。政府は、月に7億枚を供給できるといっていますが、必要な数は、月に30億枚です。

(エチケット使いの人は、何日か使って捨てているようですが、それでいいと思います。)

 

この数字は一日の使用量の概算の話で、家庭用、医療用、商売用にストックする量を考えると、7億枚では市場ですぐに手に入れれるほどは供給できていないのです。

 

しかし、マスクが品切れになる理由は、結局、使い捨てだからです。

 

作っても作っても、捨てられて捨てられて、手元に残らないので、いつまでも需要に供給が追い付かない。それならば、一般の人のエチケットマスクを、布マスクにしてしまえば、この問題は一気に解決するということです。

 

その点について、政府は賢いのですが、なんせ、遅すぎです。

もっと、早く配れば、転売のうまみも薄れて、買いだめも少しは抑えられたかもしれません。

 

 

布マスクだと予防の効果がないと言っている人は保健体育の勉強をもっとしなさい

手前ごとですが、先週、マスクについての学習を子どもたちにしていたら、小学5年生の男の子がこんなことを言いました。

「お姉ちゃんはいつも予防でマスクをしていますが、家族で真っ先ににインフルエンザにかかるのはお姉ちゃんです。」

 

マスクというのは、している本人の病気への予防効果はあまりないとされています。

常識のことですが、それを知らない人がたくさんいるのが問題です。

 

布マスクだろうが、不織布マスクだろうが、自分への予防効果はそんなにありません。

あえて言えば、むやみに口や鼻を触らないというのはあるかもしれませんが、目からもウイルスは入ってきますから、目がかゆくてをこすったらアウトです。

 

マスクが、〇〇を99.9%カットなどとうたっているのは、そのマスクを通ってくる空気のことで、空気はマスクの横からも入ってきます。

 

さらに、そのうたい文句も、メーカーによっては信用することもできませんよね。

自分たちでは、調べられませんから。

 

花粉なら量を制限できるかもしれませんが、ウイルスは体内で増殖しますし。

 

なのに、マスクが自分を守ってくれると信じている人が多いのに驚きです。

学校の保健体育では、いったい何を教えているのでしょうか。

 

今のこの世の中を考えると、主要と言われる5教科(国・数・理・社・英)よりも、保健体育の方がよっぽど、大事だということがわかります。(ちなにに僕の専門は、保健体育ですので)

 

 

今日のまとめ

さて、話をもどしますが、マスクは、自分ではなく、周りの人を守るためにするのが正解です。

 

咳、くしゃみ、会話などで、ウイルスなどの飛沫を防ぐということです。

 

布マスクでも、十分効果が見込めます。

 

僕は学校の保健体育で子どもたちにそういうこと教えていましたが、親はそれを理解していない場合も多く、子どもが間違った知識を教え込まれているのも問題です。

 

親の中で、そういうことを知らない人が多いのは、義務教育での学びが足りないとしか言いようがありません。

 

中には、学校の先生ですら、健康に関する誤った知識を持っている人が多いのですが、ある程度の知識があれば、別に詳細を学ばなくても、考えたらわかることです。

 

 

「このマスクは、毒ガスを99.9%通しません。」

という普通の形のマスクで毒ガス室に入ったら、即、死にます。

 

よっぽどの密閉機能をもつマスクでないと、ウイルスの侵入は防げないのです。

 

ここ10年程前から、学校現場でも、インフルエンザや風邪の予防ということで、マスクをしている子が増えてきたように思います。

 

しかし、先ほどから言っていますが、マスクで自分を守ることはできません。

現に、マスクをしている子から、風邪をひいて休む傾向があります。

これは、また別の理があるのですが、長くなるので、その話はまた別の機会にしたいと思います。

 

マスクは、「周りの人を守るため」で、布マスクが家に届いたら、とにかく全員がマスクをするよう心掛けましょう。

 

正しく恐れて、この難局をみんなで乗り切りましょう。

 

 

てなわけで、とにかく、布マスクを早くくれー。

 

 

「学校休校で親に負担が・・・なんて言っている人へ」の巻

子どもは意外とのんびり過ごしている

 

春休みです。

といっても、ほどんどの学校は休校からの突入なので、春休みだからどうしたという感じで、ずっとお休みです。

 

僕は、仕事の関係上、毎日、子どもたちに会う機会があります。

 

そこで、会う子、会う子に、最近、何をして過ごしているのか聞いてみたのですが、その回答はいたって普通です。

 

嘘か真か「勉強してます」が一番多く、次いで「テレビを見ています」、「ゲームをしています」、「YouTube(などの動画)を見ています」、「漫画を読んでいます」などなど。中には、「午前中は寝てます」なんて子も。

 

意外だったのは、「読書」という回答がなんとゼロ。

 

「本は読まないの?」と聞くと、もともと読書の習慣がない子も多いのですが、よく本を読んでいる子も、読んでませんとのこと。家に読みたい本がないのだそうです。

 

近所の図書館は、このコロナ騒ぎで閉まっているし、本屋さんに行くのも自粛しているのでしょうか。

 

せっかく、時間はたくさんあるのだから、読書もしてほしいと思うのが良識的な大人の意見です。

 

「学校で本の貸し出しはなかったの?」

「ありませんでした。」

 

学校で最後の日にでも、図書の貸し出しをしていれば、イタリアで話題のドメニコ・スキラーチェ校長先生のメッセージのように、「この機会に良い本に出合えた」かもしれないのに。学校は何をしているのだ。

 

 

ずっと休みだと、そろそろ退屈しているんじゃないかと聞いてみると、全員が「退屈していない」との回答。

 

子どもたちは、それぞれに過ごし方を見つけているので、大人は心配しないことです。

 

「学校へ行きたいか」どうかも聞くと、これまたほとんどの子が、「別にどっちでもいい」とのこと。

 

当たり前といえば当たり前ですが、子どもにとっては、学校は休みの方がいいのです。

 

 

家で独りで過ごせない子どもって???

 

テレビでは、これに反して、「学校に行きたい」という子の映像しか流さないし、「家にずっといるのでストレスが・・・」とかいうセリフもよく耳にしましたが、よく考えてみてください。

 

「我が家」というところは、子どもがもっとも落ち着ける場所ですし、緊張を解放できるところです。そうでなくてはいけません。

 

自分の家にいてストレスがたまるって、どういう家庭なのでしょうか。

今のところ、外出禁止令が出ているわけではないので、全く外に出られないわけでもありません。

 

 

僕は昭和の人間ですが、自分が子どものころを思い出して、これらの報道を不思議に思います。

 

当時は「鍵っ子」なんて言葉もありました。

共働きの親の子のことで、首に鍵をぶら下げていたので、そう呼ばれていました。

 

もちろん、帰っても家には誰もいません。

 

晩御飯を自分で作って食べていると言う友だちもいました。

 

今とは逆に、放課後、塾や習い事に行っている子も少なく、学童保育などの子どもを預かってくれる所なんてありません。

 

みんな、ほったらかしにされていましたが、自分たちでいろいろな遊びを考え、楽しく生活していました。

 

では、令和の子は違うのかと思ったら、そうでもないようです。

 

子どもたちは、自分たちで工夫して、楽しく生活できるのですが、大人が干渉しすぎている点は否めません。

 

 

 

家で独りでいるときこそ教育のチャンス

テレビのインタビューで「家に子どもだけにしていると心配」なんていっている人がいましたが、それは各家庭の問題で、社会の問題ではありません。

我が家というのは、世界一、安全の場所であり、そこで独りで過ごせないのは、ただただ、家庭教育ができていないだけです。

 

学校が休校で困るなんていっていますが、実際はそんなに大事にもなっていませんよね。学校は、ある意味、社会インフラの一つで、必ずしもあるとは限らないと考えておくことも必要です。

 

世界には、学校に通えない子などごまんといますし、学校が遠くて、在宅で公教育を受けている子どもたちもたくさんいます。

 

だから、学校が休校になったからと言って、自分たちが不幸みたいに言うのは、贅沢な生活を送っている日本人ならではの不平です。

 

今回の様々な報道がされている家庭の問題のうち、半分は、平和ボケと甘えです。

欧米では、戦争並みの厳戒態勢をとっています。それを考えて、少々の不便はみんなで我慢しないといけないのではないでしょうか。

 

もちろん、日ごろから、特別な支援が必要な児童や、発達段階において遅れがちな児童については、何かしらのケアが必要ですが、そうでない子は、小学生以上であれば、家で独りでも生活できます。

 

何でも大人がやってしまう過保護な生活を送っていると、「生きる力」は身につきません。

今までは独りで過ごした経験がない子も、これを機に、自分たちで生活できる「生きる力」を身につけることができるのです。

 

 

 今日のまとめ

僕は、ここ10年程、夏休みにサマーキャンプを開いて、小学1年生から中学3年生まで、30人ほどの子どもたちに、自分たちだけで生活する体験をさせています。

スケジュールや食事の献立などの計画は、僕の方で立てますが、当日、大人は一切、タッチせず、子どもたちだけで3日間、生活します。

朝昼晩の三食すべて、自分たちで作ります。
かなりちゃんとしたメニューです。

その他の活動もほぼ、自分たちの判断で進めていき、何の問題もなく三日間を終えます。

保護者の中には、参加前に心配されている方もいますが、キャンプから帰ると、家でも食事の準備を手伝ってくれるようになったなどと、喜んでおられます。

 

生きていく術は、ある程度、ほっておくことで学習します。
それは、困って、考えるからです。

 

 

今は、世界中が大変な時です。

 

こういったときに、個々が「逞しく生きる力」を身につけるチャンスだと思って、この困難に立ち向かっていこうではありませんか。頑張ろう、ニッポン!!

 

 

 

「全国一律で休校は正解。愛媛県の判断がもっと正解。」の巻

なぜ3月2日からなのか

新型コロナウイルスの感染が広がる中、政府が出した要請に波紋が広がっています。

それは、ご存じの通り、全国すべての小中学校、高等学校などに3月2日から春休みに入るまで臨時休校にするというものです。

 

学校という場所が病気流行の発信源になりうる以上、この一斉休校の要請は今の段階では致し方ないと思いますが、3月2日の月曜日からという唐突さにはびっくりしました。

 

政府は、この土日にみんなが動くことによって、いろんなところで接触感染し、それを週明け学校に持ち寄る可能性を考えて月曜日からにしたのだとは思うのですが、やはり急すぎる設定は、学校現場、子供たち、保護者に混乱を招いています。

 

知り合いの先生は、この報道を知ったのが、職場から帰って夕食中だったそうで、勿論どうすることもできず、金曜日の授業がどうなるのか、不安の一夜を明かしたとのことでした。

 

木曜日の夕方にこの要請が出されて即実施となると、その日はもちろん何の対応もできず、訳も分からず迎えた金曜日で年度が終わりになってしまいます。

現にそうなっている学校も多いのですが、現場としては、最悪のタイミングですね。

 

その点、愛媛県の対応は非常に感心しました。

 

愛媛県のとった対応は、3月4日の水曜日から休校。

そうすれば、担任の先生たちも、土日に学年を〆るためのいろいろな準備ができますし、月曜日に学習のまとめや、学級活動のまとめ、火曜日に修了式をすることも可能です。

 

既に流行の兆しの見られる自治体は悠長なことは言ってられないでしょうが、愛媛県のこの判断は、大正解だと思います。突然の発表にも、現場の動きをシミュレーションをしてみれば、この二日間の猶予で学校もきちんと〆られることは想像できます。先生にとっても生徒たちにとっても、良い判断だったと思います。

 

 

平和ボケではなく予測力が乏しい日本人

日本人は、海外から言われるまでもなく、いつも危機意識がありません。

だから、さまざまな災害にも後手後手になって悲しいことになっています。

そして、必ず使うのが「想定外」という言葉。

 

「想定外」という言葉は、きちんとした想定ができない愚かな人が使う言葉です。

本来、危機への想定とは、予想の数段上に設定するもの。

みんな、ぼぉーっと生きてるから、大事がより大事になっている感は否めません。

 

現時点で、アメリカで感染人数が少ないのは、早々に入国制限をしたことにあるでしょう。日本政府は全くもって、想定が下手な上に対応が遅いとしかいいようがありません。

 

今回の政府の休校要請は正解だと思いますが、もっと早く判断できただろうし、初期段階の入国制限をきちんと実施していれば、流行の速度も今より抑えられ、一斉休校の2、3週間の中に春休みを含むことも可能だったでしょう。そうすれば、家庭への負担その他も、もっと軽減されていたはずです。

 

 

今後の流行は仕方がない

今後、この新型コロナウイルスが日本中で流行するのは仕方がありません。

じゃあ、それに対してどうすることが大切なのでしょうか。

 

やはり、まずは高齢者や持病のある人への感染を防ぐことを一番に考えなければなりません。

 

学校の休校を実施しない自治体もあるそうですが、子どもたちが、家庭で、おじいちゃん、おばあちゃんに接触しないようにすることは徹底する必要があります。

 

あと、海外への渡航を制限することも国際的責務でしょう。

日本から世界に拡散することも避けなければなりません。

 

 

今日のまとめ

今日の東京マラソンの沿道の観客の多さを見ても、現時点でまだ危機感がない日本人。

 

政府には正しい情報をきちんと発信してもらい、デマに惑わされず、正しい判断で行動をすべきです。

 

これから一年、下手するとそれ以上、我々は我慢を強いられ、多くの困難が待ち受けていると思いますが、国民全員で、いや世界市民全員で思いやりを持ち合い、この逆境を乗り切っていきましょう。

 

 

「教師同士のいじめに騒いでいる不思議?」の巻

学校の職員室いじめの状況

最近のマスコミで、教師同士のいじめが取り沙汰されていますが、教師間のいじめなんてどこにでもあります。

 

学校の先生なんだからいじめなんてないでしょうと思っている人がいれば、それは想像力が乏しいとしかいいようがありません。先生も普通の人間です。

 

僕が赴任した学校でも、ある程度の規模の学校ではいじめがありました。

 

ある職場は、職員室でのリーダー的な先生がいじめの主犯格だったため、だれも何も言えない状況。

 

ある職場は、校長のお気に入りの先生がいじめの張本人だったため、これまた誰も文句を言えない状況。

 

先生間のいじめは、女性教諭や女性っぽい男性教諭が主犯格になる傾向がありますが、これはいじめの中でもポジショニングという種のもので、子どもも大人もパターンとしては同じです。

 

逆に男性教諭に多いのは子どもへのいじめで、これまた心理学的には理由がありますが、今回はスルーで。

 

 

教師の資質といじめ

教師間のいじめというのは、教育を司っている人間としてやってはならないことだと思いますが、教員採用試験でそのような人間性を確かめる術はないため、意地悪な人も採用されてしまうのは仕方がないことなのかもしれません。

 

とはいえ、今回の事例は度が過ぎています。(ニュースの内容程度しか知りませんが)

 

「いじめる」という行動に至る人間性は、どう考えても教師としては失格ですので、辞めてもらわないとだめでしょうね。

 

そして、周りの先生たちもいじめの事実を知っていたにも関わらず、自分たちに火の粉が降りかからないように、そのいじめられている先生を助けようとはしなかったのですから問題です。なんと情けない先生たちか。

 

この学校の先生たちには、「正義」という概念がなかったのでしょうか。

 

子どもたちには、「正しいと思うことを勇気をもって行いなさい」と教えているはずです。

 

今回のいじめの黙認も、一般的ないじめと構図はいっしょですが、それを打破できる人間がその職場にいなかった、権力をもつ人の間違いを「間違ってます」と言えない現状、今の日本の教育界の問題であり課題です。

 

 

教師は聖職なんて言われていたのは大昔の話で、今や誰でもなれる職業です。

 

高い理想を掲げているわけでもなく、高い知能と指導力があるわけでもない、ごく一般の人がなっているわけで、そこに正義を求めても無理なのかもしれませんが、やはり残念なことです。

 

 

教師も普通の人であるという事実

僕は、いろいろな学校で、職員室いじめとも戦ってきましたが、子どものいじめと同じで、いじめの矛先は、かばった先生にも向けられますので、他の先生たちは知らん顔です。

 

結局のところ、正義だ道徳だなんてことを考えて生きている先生はほとんどいないのです。

 

僕は、いじめに対して撥ね返すだけの能力があるので、そのいじめの主犯格の先生には倍返しにしてやり、校長にも「(職員室の)このいじめの状況が続くのなら、黙ってはいませんよ」と意見したら、次の年に異動になりました(笑)。

 

マスコミでは、事件になるようなことしか学校のブラックな部分をピックアップしないが、まあ、現場にいるといろいろなの先生同士の醜い部分も見えてしまうのです。

 

学校の先生といえども、所詮は普通の人間なのです。

 

 

今日のまとめ

もし、教師同士のいじめがないような教育界になれば、子どもたちのいじめももっと少なくなることでしょう。(校長や教育委員会、その他教育機関からのパワハラも含めて。)

 

そうならないのは、教育現場にモラルセンスのある教師が圧倒的に少なすぎるのです。

 

学校における問題の全ては、教師の資質の問題です。

 

そのあたりをきちんと判別できる「新たな教員採用試験」を検討していかない限り、この問題は永遠になくならないのです。

「国会議員や大臣の失態は有権者の責任です」の巻

選挙には行かなくていい

選挙ウィークなので、選挙に関する話題でいきます。

 

選挙と言えば、投票率というものが数字として話題になりますが、日本はどうも選挙というものを軽んじすぎです。

 

選挙には無理に行かなくてもいいのです。

 

「いやいや、選挙に行かなくていいってのが、逆に軽んじてないか。」

と言われそうですが、さほど政治について興味もないのに、選挙だから行くって方が、一票をバカにしすぎです。

 

無責任に投票することは、一生懸命考えて一票を投じた人の一票の濃さを薄めるということをもっと考えてください。

 

誰でも彼でも、なんの持論もなく、与党だから入れるとか、有名人だから入れるとか、見た目がいいから入れるとか、よくわからないから適当に入れるとか、無責任にもほどがあります。

 

先人が、下手すれば血を流しながら勝ち取った選挙権を、なんの重みも感じずに使っている様がずっと疑問です。

 

だから、「選挙に行こう」というスローガンは嫌いです。

  

 

 

選挙権は権利であって義務ではない

投票を呼び掛けるアナウンスが、連日流れます。

「みなさん!投票に行きましょう!」

 

選挙とは、行きたい人が行くというのが本来の姿ですが、なぜか日本は「選挙に行け!」と呼びかけます。

 

小学校の教員をしていた時も、なぜか「投票には必ず行くように」みたいなプレッシャーがありました。おいおい、義務かい投票は。

 

そんな学校で、子どもたちに権利とか義務とか教えているのだから、正しく教えられるはずはありません。もちろん、選挙についてもです。

 

毎日の生活が大変で、この日本をホントに変えたい、変えてほしいと思ったら、別に呼びかけなくても、選挙には行くでしょう。

 

投票率が低いのは、逆に言えば日本が平和だということです。

 

18歳の高校生にまで選挙権を与えてしまったこともおかしなことです。

 

18歳の若者から、「俺たちにも選挙権を!」などという運動が盛んに行われて、仕方なく与えることとなったのならわかりますが、勤労、納税といった義務を果たしていない学生に権利だけを与えるのは、社会の根本から間違っています。

(そもそも年齢の線引き自体おかしいのですが。)

 

18歳・19歳の投票率を見ても、その必要性がないことは明白でしょう。

 

 

選挙権剥奪なんて過激ですか

あなたは、なぜその人に投票したのかを政策の観点から説明することができますか。

 

投票に行く人の中で何人の人が、候補者や政党の公式サイト、政見放送などを見てそれぞれの政策を比較し、自分の理想に近い考えの人を選んで投票しているのでしょうか。

 

僕の周りの人は、ぼとんどの人が直観という無責任な選択で投票しています。

そのくせ、自分たちが選んだ議員が問題を起こしたら、「地元の恥だ」とか言ってバッシングします。

 

選んだのはあなたたちですよね。

 

国会議員は、比例代表なんてわけわからない制度は別として、一応地元代表ですから、問題を起こした議員の選挙区の人は、その議員を選んだ責任があります。

 

しかし、選んだ人たちは、その責任を取ることはありません。

 

ということで、僕が提案するペナルティーは、問題を起こした議員の選挙区の人は、次回の選挙には投票できないというルールにすればいいのです。

 

そうすれば、当選した議員はもっと襟を正すだろうし、有権者ももう少し真剣に選ぶようになるでしょう。

 

一票を投じる国民も一票を投じられた候補者も、責任がもっと重くなります。

そして、よりよい国になっていく可能性が生まれます。 

  

 

今日のまとめ

「末は博士か大臣か」

昭和の頃、学校で成績が優秀な子は、こう言われていました。

 

昔は、国会議員、ましてや大臣なんてすごい人がなるものと思われていましたが、今やあの程度の人でもなれるということで、その価値も落ちてしまっています。

 

政治に興味のない人が多いのは、平和だからでいいことですが、今の日本を客観的に見て、将来の存亡に不安があるのも事実です。

 

選挙では、より志の高い候補者をきちんろ選択して投票してほしいのですが、ほどんどの人が適当です。

 

そこには、学校教育の責任もあります。

 

選挙権をもつ大人になった時に、より志の高い人を選択できるよう、その方法を教えることも公教育では大事なのですが、自分自身も学んだことはありません。

 

国会議員や大臣の質は、国民の質だと考えるべきです。

 

選挙に行く人は、その人を選ぶことにもっと責任を持ちましょう。

 

 

「なぜ、学校はいじめに真剣に向き合わないのか」の巻

いじめは学校の責任です

 

 いじめ関連のニュースを見ると、ひとりの大人として、そして一教育者として、心が痛くなります。

 

「学校内のいじめはなくせる」というブログを以前書きましたが、なくさないのは学校の先生の責任感がないことの現れです。

 

学校の先生という職業は、子どもたちのために一生懸命頑張るみたいなイメージがありますがそれは妄想です。

 

ほとんどの先生が自分自身や自分の家族のために仕事をしていて、担当した児童生徒の人生に対し責任を感じている先生などほとんどいません。

 

だから、いじめもなくなりません。

 

 

はっきり言うと、どのクラスにもいじめは存在します。

しかし、担任がそう思ってクラスを見ていないから、見えるものも見えないのです。

 

各学校のいじめ対策としては、アンケート調査を行っていじめなどのトラブルを早期発見し解決するというのが大方の傾向です。

 

しかし、そのアンケートに載った時点で、そのクラスや学校の生徒指導や道徳教育に根本的な問題があると考えなくてはいけません。

 

いじめというのは起こってから対策をするのでは本来遅いのです。

いじめに至らないようにする環境作りが実は大事になってきます。

 

 

ニュースになるような内容になると、アンケートで発見するのではなく、ずっとそばにいる担任がその事実を把握できないていないというのが大問題です。(親も含めてですが。)

 

子どもの毎日の表情を見て普段と違っていたら声をかけるとか、休み時間に子どものがどこで何をしているのか大体把握しておくとか、普段からクラスの友だち関係に目を向けておくのは担任の責務です。

  

学校教育の現場は、「子どもの社会」というものを軽々しく考え過ぎです。

  

 

 

先生がいじめに向き合わないわけ

 

いろいろな学校で実態を見てきたのですが、理由は大体似たり寄ったりです。

 

代表的なものを挙げてみると、

①面倒なことに関わりたくない。

②いじめがクラス(学校)にあると自分の評価がマイナスになる。

③多少の人間関係は我慢が必要だと思っている。

④いじめはなくならないとあきらめている。

 

段階的には、こんなところです。

 

 

①の「面倒なことに関わりたくない」という理由。

これが、一番多いパターンですので、今回はそこに焦点を当ててみましょう。

 

 

まず言いたいのは、見ない、もしくは見て見ないふりをする教員の多いこと、多いこと。自分のクラスにはいじめがないと思い込みたいのでしょう。 

 

 

ある学校で、ふと目についた女子グループで、その人間関係に違和感を感じた僕は、その子たちの担任の先生と生徒指導担当の先生に、こう伝えました。

 

「あのグループは、いじめの兆候がみられるので、注意してみておいた方がいいですよ。」

 

僕としては共通理解してもらったものだと、この子たちにもそれなりの注意と指導が入るものだと思っていましたが、そこは浅はかな考えでした。

 

結局、事は起こってしまいます。

 

3学期の職員会議での報告。家庭からいじめの相談があり発覚したとのこと。

おいおい。僕が君たちに警告したのは1学期だぞ。

 

その報告を聞きながら、その先生たちへの怒りと自分がその先生たちを信じて任せてしまった落ち度に、ため息しか出ませんでした。

 

なぜ、僕の警告が生かされなかったのか、それはみなさんの想像の通りです。

 

面倒なことに立ち向かえるのは、教師であるという責任感のみですが、今の時代の教員にそこを問うのは難しいのかもしれません。

 

 

 

いじめの起こりやすい環境

 

クラスにいじめは必ず存在するとはいいましたが、起こりやすい環境と起こりにくい環境があります。

 

まず、いじめが起こりやすさは、学校の荒れと比例しています。

 

先に挙げた学校は荒れに荒れていたので、実際いじめも沢山あったようです。

「先生に相談しても絶対なくならない」という6年生の悲しいセリフを聞いたと、僕に相談してきた先生もいました。

 

学校の校則や学級のルールをブラックなどと称してバッシングする専門家がいてびっくりですが、子どもたちにはできるだけ細かいルールを示して、それを守らせる訓練が必要です。

 

そういったことの延長線上にいじめもあると思ってください。そうすれば、おのずといじめ対策の仕方がわかってきます。

 

 

もう一つの悪い環境は、学級経営能力のない先生の受け持ったクラスです。

 

特に小学校の学級経営は「学級王国」と言われたりもしますが、その王様に子どもたちを統率する能力がないのですから、学級は崩壊し、いじめも起こります。

 

ある学校の職員室で、5年生の担任が自分のクラスの問題児童の指導について、管理職の先生に指摘されたのに逆ギレして、「あの子に何か言うと、私がいじめられるからできません。」と言ったのをきいて唖然としました。

 

「じゃあ、さっさと職を辞せ。」

と、僕が管理職なら言うけど。優しいね。先生同士も。

 

こんなぼろい先生もいますが、学級王国にはいい面もあります。

どんなに学校が荒れていても、自分のクラス内の子どもたちは守れるということです。

 

荒れた学校では、担任次第で子どもが楽しく学校にいけるかどうかが決まるので、保護者の担任への期待はすごいものがあります。

 

以前受け持っていた子の親からは、「今年は〇〇先生になったので安心です」なんて報告も僕のところにちょこちょこ届きますが、そんな学校がなくなってほしいと願っています。

 

 

 今日のまとめ

僕は、子どもたちの人間関係を良くする方法をいろいろと知っています。

勿論、いじめをなくす方法も知っています。

 

しかし、そういったいろいろな実践やノウハウを研修会などで紹介しても、それを理解できる頭脳とそれを実践できる指導力を持ち合わせた先生がいないのにがっかりしています。

 

学校の先生は世間知らずといわれますが、どうしても経験則で教育理論も考えがちで、社会における人間の心理と真理を理解しようとしません。

 

いじめに対しても、「ダメだ」としか言わない先生が多いのですが、それではなくなりません。

いじめに対して、まずは「人間の持つ本能的な行動」だと認識しましょう。

 

本能を理性で律することのできる人に育てるのが学校教育の目的です。

 

いじめは悪だとするから、生徒も先生もできるだけ隠そうとするので、逆に「いじめは必ず起こるもので、それはみんなが楽しく生活するためにはなくさないといけないものだ」という共通認識のもと、もっと外に出しやすい環境にしていくことが大切です。

 

そして、学校は、いじめを教育課題として位置づけ、もっと真剣に向き合うべきなのです。

 

 

 

「学校の先生の子どもに好かれたいは問題」の巻

先生の「子どもに好かれたい」は問題

 

職業柄、学校の先生には「子ども好き」の人が多いようです。

情熱をぶつける相手は子どもたちですから、子ども好きに越したことはありません。

 

中には、「子どもはそんなに好きではない」という人もやってますが、それはそれで問題ないでしょう。仕事をきちんとしてくれればいいことです。

 

ただ、逆に「子どもたちに好かれたい」と思っている先生は問題です。

 

ここで、「I think so.」の人は、教育というものをわかっている人です。

 

実は、この「子どもに好かれたい先生」たちが、学校をぼろくしています。

 

なぜかというと、好かれたい感情は、好きになってくれた児童生徒と嫌われているだろう児童生徒に対しての差別、贔屓を生み、平等な教育的指導を邪魔します。

 

また、特定の子どもに好かれたいとか、人気取りのために、厳しい指導ができなかったり、ころころと態度を変えたり、正義を捻じ曲げたりと、指導者側の態度に悪影響を及ぼします。

 

だから僕は、好き嫌いという感情自体を教育現場に持ち込まないようにしています。 

 

 

 

子どもに好かれたい先生は多いのか?

 

「学校の先生は、どうも子どもに好かれたいらしい。」

 

僕がそのことに気が付いたのは、ある学校で、No.3に呼び出されて、こう言われた時です。

 

「かぐら先生は、少し目立ちすぎかな。人気取りもいいけど、他の先生たちもみんな、子どもたちに好かれたいと思っているので、あまり目立ちすぎないようにね。」

 

僕が人の中で目立つのは、生まれつきです。変わりモノなので。

ですので、「目立たないように」は無理ですが、驚いたのは目立ってはいけない理由です。

 

人気取り?

好かれたい?

 

まず、その学校で上から注意されるほど、また、他の先生に羨ましがられるほど、子どもたちに人気があったことを僕自身は知りませんでした。

 

そういえば、学生の時の教育実習でも、一緒に行っていた同級生にこう言われました。

「クラスの生徒に、かぐら先生が(うちのクラスに)来てくれたらよかったのに、と言われた。ショック~。」

なぜか、「ごめん。」と謝ったが、それも僕のせいなのか。

 

まあ、この同級生も、子どもたちに好かれたいタイプなのでしょう。

 

 

僕は子ども相手の仕事をやっていて、一度も子どもに好かれたいなどと思ったことはないので、そんなことを大の大人が、それも教育者が気にしてるということがショックでした。

 

教育とは、基本的に子どもたちの嫌がることをさせることです。

 

勉強もみんな嫌です。

生徒指導もみんな嫌です。

 

嫌でもやらないといけないのです。

それがより良き社会を作ることにつながるからです。

  

教育者としてやることをやって人気が出るのはそれはそれで悪くはないですが、大義の前では子どもに好かれるかどうかなど、どうでもいいことです。

 

それに赴任した学校によっては、子どもたちに嫌われていた学校もありますので、その時はたまたま相性の良い学校に行っただけでしょう。

 

 

 

人気・不人気は子ども次第

 

僕は、新しく行った学校では必ず新任のあいさつで、子どもの気持ちをつかむために宙返りをします。

 

これで、子どもに自分の名前を覚えてもらいます。

 

「バク転先生」(正確にはバク宙なんだけど)なんて、あだ名のついた学校もありますが、高学年の男子や低学年の児童にはインパクト絶大です。

 

しかし、これは、別に人気取りのためにやるのではなく、たくさんの子どもに存在を示すことにより、今後の生徒指導をしやすくするためです。

 

全校児童の名前もできるだけ覚えます。

それは指導する時に、名前を呼んだ方が、その子の心に響くからです。

 

僕は人の名前を覚えるのが苦手です。

なので、1000人規模の学校になると全員は無理ですが、半分ぐらいの子、特に問題児童は、頑張って覚えます。

 

そして、気になった子にはどんどん声をかけます。(ほんとんど注意ですが。)

それで、子どもから支持されているのもあると思います。

  

ただ、学校が崩壊しているような学校だと、子どもたちに総スカンされた経験もあります。  同じことをやっても、嫌われる学校もあるということです。

 

子どもたちがわがままを許され正義と敵対しているような学校では、僕は正義を司るただの厄介者ですから、そういった子どもたちに好かれることはありません。

 

僕は、どんな学校だろうとスタンスは変えないので、中にはウェルカムでない学校もあるのです。

 

 

 

子どもに嫌われる先生はいい先生?

 

子どもに嫌われていると聞くと、いかにも悪い先生のようにイメージする人もいるかもしれませんが、実はそれは間違いかもしれません。

 

僕自身は、児童生徒に人気のある学校と、人気のない学校がありました。

人気のある学校は、ある程度、学校の秩序が守られている学校で、人気のない学校は、ほとんど崩壊している学校です。

 

乱れた風紀を正すには、積極的な指導が必要で、そこには子どもたちのストレスがかかります。なので、「この先生嫌い。」となるのです。

 

子どもたちの好きな先生の一番は、「優しい先生」です。これは、性格が優しいの意味ではなく、自分のわがままを聞いてくれるといった意味の「優しさ」です。

 

だから、優しい先生のクラスは、かなりの確率で荒れます。

 

学級経営の大事なことは、しめる時にはきちんとしめることで、「怖い時には怖いが、普段は優しい」が、子どもたちからのベストな評価でしょう。

 

正しいことをしている人は、悪いことをしている人には嫌われます。

 

生徒指導とは、子どもの悪いところを正さないといけないので、基本的に嫌われ者になる可能性が高く、やりたがらない先生が多いのが問題です。

  

 

 

今日のまとめ

 

僕は、人があまり好きではありません。

「それなのに、なんで学校の先生になったの?」

友人には不思議がられることもあります。

 

しかし、それだから、きちんとした生徒指導ができたのかもしれません。

 

目の前の子ども好かれようが嫌われようが、教えることはきちんと教えることができないと、教育のプロとは言えません。

 

「人類は教育によって人間になる。」 

子どもたちがちゃんとした社会人になるには、きちんとした教育が必要です。

そこには、好きとか嫌いとかそのような感情ではなく、理性が大事です。

 

先に述べた先生たちは、子どもたちにとっての良い先生になろうとしてますが、それが間違いなのです。

 

子どもたちにとってではなく、社会にとっての良い先生でなくてはいけません。

 

「嫌われてもやることはやる」

それぐらいの覚悟をもった人が、学校の先生にはなってもらいたいものです。